元・陸上幹部自衛官の13年間の奮闘記

ダメダメ大学生だった元陸上自衛官の13年間の自衛隊での経験や教訓を共有するブログ

【必見!】元陸上自衛官が硫黄島(いおうとう)で❝先人たちの凄さ❞を思い知った話

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(出典:http://oyakochoco.jp/blog-entry-116.html?sp

 

おはようございます。

元・国防男子の大吉です。

 

現役自衛官の時に「硫黄島」に研修に行く機会がありました。

今日は、東京都の「硫黄島」に研修に行ったときの話

したいと思います。

 

ちなみに、日本に「硫黄島」は2つあります。

東京都と鹿児島県です。

 

そのうち、

東京都小笠原村の「硫黄島」は、「いおうとう」と呼び、

鹿児島県三島村の「硫黄島」は、「いおうじま」と呼びます。

↓ は、鹿児島県の硫黄島です。

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大東亜戦争の激戦地 硫黄島

硫黄島」は、東京都小笠原村に属し、

東京都23区から約1,200km南方に位置する小さな島。

南北約8km,東西約4km

そんな小さな島で大東亜戦争時の1945年2月19日から3月26日、

日米軍による大激戦が行われた。

 

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(出典:Wikipedia) 

 

日米の兵力比は、

日本軍守備部隊:約23,000名

米軍上陸部隊:約75,000名

 

米軍の上陸部隊は、日本の守備部隊の兵力の3倍以上

 

戦車や火砲等の装備品の比率も、

攻撃する側の米軍が圧倒的に有利

 

そんな圧倒的に不利な状況にもかかわらず、

この小さな島で1ヶ月以上も米軍の猛攻から持久したのです。

 

そして、

日米両軍の損耗は、

日本軍:20,933名

   (戦死:19,900名)

米 軍:28,686名

   (戦死:6,821名)

 

ミッドウェー海戦から日本軍が劣勢となってから、

米軍の損耗数が日本軍の損耗数を上回った唯一の戦闘

 

硫黄島の戦略的価値は、

太平洋に浮かぶ“不沈空母”としての高い価値があった。

硫黄島には、日本海軍が作った飛行場がある。

日米両軍にとって、この飛行場はとても戦略的価値の高いものであった。

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米軍は、硫黄島を奪取する前には、

硫黄島から南に約1,100kmにあるサイパン島から日本本土を爆撃していた。

爆撃機」の日本本土⇔サイパン島の往復は可能だったが、

爆撃機を護衛する「戦闘機」の往復は不可能だった。

そのため、日本本土を「爆撃機」により爆撃する際には、

日本軍の迎撃機を回避するために高高度爆撃に依存していたため、

爆撃の精度が低下していた。

長距離を飛行して爆撃しているのに思ったとおりの成果が出ない

 

しかし、米軍が硫黄島奪取することで、

戦闘機が爆撃機の護衛をすることが可能となり、

爆撃機を安全に日本本土まで飛行させて

爆撃することが可能となるのだ。

 

日本側としては、どうしてもそれを阻止したい。

 

このため、硫黄島は戦略的価値が非常に高い島となり、

硫黄島での戦闘は、

日米両軍にとって今後の戦局を左右する重要な戦闘

として位置づけられた。

 

硫黄島の戦いは、過去には映画にもなりましたね。

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硫黄島からの手紙』の中で、

天皇陛下万歳」と言って手榴弾集団自決のシーンは、

何とも言えない思いで見ました。

 

沖縄戦もそうですが、

当時は敵に殺されるよりは、自ら命を絶つという思想があったのですね。

 

そして、この戦闘の海兵隊の評価。

「この戦闘は、過去168年間の間に海兵隊が出会った最も苦しい戦闘の一つであった。太平洋戦争で戦った敵指揮官のなかで、栗林は最も勇猛であった。」

と、硫黄島上陸部隊指揮官のホランド・スミス海兵中将は述べている。 

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(出典:wikipedia

 

海兵隊にとっても、これまでになく熾烈で多くの教訓を残した戦闘だったようだ。

指揮幕僚課程の研修で硫黄島

現在、硫黄島へは自衛隊関係者や遺骨収集の人、米軍などの

限られた人しか立ち入りができない

 

防衛大の学生硫黄島研修があるのですが、

陸上自衛隊では指揮幕僚課程(CGS)高級技術課程(TAC)

幹部特修過程(FOC)の学生や不発弾処理の隊員

くらいしか行くことができません。

 

なので、防衛大卒の人でCGS等に行けば、2回は硫黄島に行くことができる。

 

僕は防衛大卒ではないため、今回が初めての硫黄島訪問。

 

初級幹部のころから、

大東亜戦争での「硫黄島の戦闘」についてはかなり勉強をしていて、

当時の戦闘の凄まじさを知っていたので、

実際にその場所に行けることはとても感銘を受けた。

 

1泊2日の硫黄島研修

研修時期は、10月中旬

本州では肌寒いが、硫黄島は蒸し暑い

まずは、海上自衛隊厚木基地からC-130輸送機硫黄島空港へ。

約2時間のフライト。

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南下するに連れて、航空機内の気温がどんどん上昇してくる・・・

 

暑い・・・

 

そして、窓からは洋上に硫黄島らしきものが見えてきた。

 

山になっているのは、硫黄島の象徴、摺鉢山(すりばちやま)。

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 硫黄島の飛行場に到着後、荷物を整えて早速研修へ。

滑走路下の洞窟の中に入ってみた

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今は立派な滑走路ができているが、

実は、この滑走路の下もアリの巣のように、

坑道が張り巡らされている

その全長は、なんと18km!(実際の計画では、28kmだった。)

 

昼間は非常に暑いので、

日が落ちてから航空機の滑走路上に入り口がある洞窟の中へ入った。

 

深さは、地下15m

夜間にもかかわらず、

地熱で洞窟の中はものすごく暑く

異常に湿度が高く、蒸し蒸しする

そして、洞窟内の経路はものすごく狭い

太っている人は通れないだろうという場所も・・・

 

これまで体験したことのない劣悪な環境・・・

 

そして、

案の定、霊感の強い同期は洞窟に入れなかった

 

教官もそのことをわかっているのか、

洞窟に入る前に学生たちに意思を確認をして、

入れそうな者だけで洞窟の中に入った

 

足場の悪い洞窟の中をロープを伝って降りていく。

 

途中、あまりにも洞窟の中が狭すぎて、不安になった。

学生は80名程度も狭い洞窟の中に入っている。

 

結構深くまで降りてきたけど大丈夫だろうか・・・

 

酸素は大丈夫だろうか・・・

硫黄を吸いすぎて死んだりしないだろうか・・・ 

 

ここで何人くらいの方が命を失ったんだろうか・・・

 

30分くらい洞窟の中を進んだところに、

 

洞窟の道の脇に人が3、4人位入れるスペースがあった。

 

教官曰く、ここは大隊長だ。

 

こんなに蒸し暑く、狭いところで執務をしていたのか・・・

 

大隊長室のそばには、水瓶らしきものがあった。

 

当時の硫黄島には、水道などない。

飲水も限られている。

 

一日の一人あたりの水の割当は、

たったの4.5リットル

飲料用で2リットル、炊事用で2リットル、洗面用で0.5リットル。

戦闘前は、水質不良による下痢が深刻な問題だった。

 

そのため、飲料水を巡っての争いが絶えなかったのだ。

だから、大隊長がその「生命の泉」を握っていた

部下にとっては、

大切な水を握られているということは酷だったかもしれないが、

任務を達成するために、指揮統率上必要だったことだった。

 

1時間ほど入っていたが、正直限界だった。

蒸し暑さ、狭さ、異様な匂い、洞窟の奥深くにいるという不安。

 

耐えられない・・・・

 

これが、夏場の昼間だったら・・・

と考えると、

たった1時間程度の洞窟内の研修だったが、

先人たちの凄さを身にしみて感じた

 

水、食料が限られている中、約半年もの間、

とんでもなく蒸し暑い中で、穴をひたすら掘り進める

そして、圧倒的な力を持つ米軍の侵攻に対して1ヶ月以上も持久

 

硫黄島の作戦は、

本土決戦準備のための時間稼ぎのための戦いだった。

つまり、そこで玉砕することはほぼ確実な戦いだった。

 

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少しでも、本土での決戦準備ができるように、

できる限り米軍を硫黄島に留めなければならなかった

 

そして、硫黄島の滑走路を奪取されることで、

米軍の日本本土への作戦を容易化してしまう。

 

なんとしてでも死守しなければならない。

日本のために、日本国民のために、家族のために・・・

そういう強い思いが、このとんでもない環境下での作戦を成立させたのだろう。

 

尋常ではない!

普通の人では発狂してしまう!

 

昔の人は、どれほど強靭な精神力を持っていたのだろうか。

鳴らないはずの携帯電話が鳴ってしまう

宿泊したのは、海上自衛隊の居室。

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(出典:https://4travel.jp/travelogue/10180810

 

その夜、信じられないことが起きた。

宿泊は、海上自衛隊の施設で4人一部屋。

 

外は、大雨が降り続いている。

 

夜中の2時頃

 

突然、同期の携帯電話が鳴った

 

目覚まし?

まだ外は真っ暗だけど、もう起きる時間?

 

時計を見るとまだ2時過ぎ・・・

 

同期がスマホ画面を見る僕を見て、声を掛けた。

 

「ねえ、ねえ、電話がかかってきたんだけど・・・」

非通知で。」

 

「え?? ここって携帯電話の電波飛んでるんだっけ?」

「俺のスマホの電波は圏外だけど・・」

 

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(出典:https://www.rikimarublog.com/entry/iphone-kengai

 

何で???」   (゚A゚;)ゴクリ

 「誰からの着信??

 

しばらくして、電話は切れた。

 

めちゃくちゃ怖えぇーー

 

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 

僕たちは、すぐにスマホの電源を切った

 

その後は、当然寝付けなかった・・・

 

世の中、不思議な事があるもんですね。 

海上自衛隊の基地から摺鉢山まで走ってみた

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2日目の朝、同期達と海上自衛隊の基地から硫黄島の象徴である

摺鉢山までランニングをした。

 

道中には、ギンネムの木がたくさん植えられていた。

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(出典:https://blog.goo.ne.jp/joe_and_mick/e/969ae6aced8e7cc51928c5f98df07675

 

これは、死体の腐敗した匂いを消すため

米軍が種を撒いたらしい。

硫黄島には、まだ遺骨が1万柱以上が残されている

 

そして、島のあちこちから硫黄が吹き出ていた。 

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硫黄島の象徴 摺鉢山に登ってみた

摺鉢山山頂には、慰霊碑があった。

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米軍側の慰霊碑

ここを訪れた米兵たちが、自分のネームタグや部隊章を供えて帰るのだ。

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硫黄島では、毎年日米合同慰霊祭が実施されている。

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(出典:https://www.sankei.com/photo/story/news/180324/sty1803240017-n1.html

 

摺鉢山からは、硫黄が吹き出ていた。

硫黄島の戦いでは、

この摺鉢山が変形するくらいの米軍の砲弾を受けた。

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摺鉢山頂から海上自衛隊の基地方向を見渡す。

海上には、未だに沈没した船舶の一部が顔を出していた。

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そして、

砲陣地の景況。

コンクリートで陣地が構築されているのは、海軍が作った砲陣地。

当時は、コンクリートの使用法を巡って陸軍と海軍の争いが

あった。

でも、米軍が侵攻してきた海上側からはコンクリートは暴露し、

著名な目標となり早々に撃破されることになった。

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砲が凹んでいるのは、米軍の砲弾が命中した跡

生々しいですね・・・・

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当時の撃破された戦車は、まだそのまま残されていた。

戦車は側面と後方部分が脆弱なので、

側面をコンクリートで補強しているのがわかる。

 

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今の90戦車や10戦車と比べると、おもちゃみたいですね。

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洞窟内には、まだ生々しい当時の遺品が残っていた

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小笠原兵団長 栗林中将(大将)

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【栗林中将 決別の辞】 

戦局最後の関頭に直面せり
敵来攻以来麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり

特に想像を越えたる量的優勢を以てす
陸海空よりの攻撃に対し 
宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは
小職自ら聊カ悦びとする所なり

然れども 飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ 為に御期待に反し 
此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは
小職の誠に恐懼に堪えざる所にして 幾重にも御詫申上ぐ

今や弾丸尽き水涸れ 全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り
熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず

特ニ本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるに思い至り
縦い魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す
 
茲に最後の関頭に立ち重ねて衷情を披瀝すると共に 
只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
永えに御別れ申し上ぐ

尚父島母島等に就ては
同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも
断固破摧し得るを確信するも何卒宜しく申上ぐ
終りに左記駄作御笑覧に供す
何卒玉斧を乞う


国の為重き努を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓る其の時の 皇国の行手一途に思ふ

 

 

米国に留学していた栗林中将。

大東亜戦争は、勝てない戦争ということは見抜いていた。

しかし、日本の方針として決まった以上は軍人として従わなければならない。

 

そして、小笠原兵団長への任命。

この地で玉砕することも理解していた。

 

圧倒的な戦闘力を誇る米軍から、如何に長期間持久するか・・・

過酷な環境下で、兵士たちをどのように導いていくのか・・・

 

日本人として、自衛官として、

この戦闘や栗林中将から学ぶものは非常に多かった。

 

そして、栗林中将の『決別の辞』からは、

祖国を思いながら無念にも亡くなっていった先人たちの

将来の日本の繁栄や安寧への強い願いが感じられた。

今の日本の平和は、多くの先人達の努力と犠牲によって

成り立っているということをこの研修を通じて改めて感じました。

 

8月15日は、終戦の日ですね。

この機会に、今一度、過去の先人たちの思いを感じてみませんか?

 

僕のオススメは、↓ です。

自衛官、これから自衛官を目指すあなたにとっては絶対に知っておくべき教養です。

そして、自衛官とは無関係でも日本人として知っておくべき知識だとも思います。

 

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散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

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最後まで読んでくれてありがとうございます。

今日も皆様にとって良い一日となりますように!

 

元・国防男子 大吉